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三國志13 リプレイ 劉徳然の絆

三國志13 リプレイ 劉徳然の絆

三國志13 公式ページ (koei)

歴史シミュレーションゲーム、三國志13(Ver.1.05)のリプレイ。

三國志13(Ver.1.05)のリプレイ(プレイ日記)。正史に名の有る人物「劉徳然」を新武将のモデルに据えてプレイしています。同族「劉備」と歩んだ数奇なる軌跡。時代を前後した史実の事跡も絡めた、言葉遊びプレイ日記です。

在野の身からはじめて、所属勢力が天下を統一するまでのプレイの様子をつづります。

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キャラメイク

新武将「劉徳然」

正史(三国志・蜀書先主伝)に名のある「劉徳然」を新武将に登録してプレイしてみました。

年十五、母使行學、與同宗劉德然・遼西公孫?倶事故九江太守同郡盧植。德然父元起常資給先主、與德然等。元起妻曰「各自一家、何能常爾邪!」起曰「吾宗中有此兒、非常人也。」而?深與先主相友。?年長、先主以兄事之。先主不甚樂讀書、喜狗馬・音樂・美衣服。身長七尺五寸、垂手下膝、顧自見其耳。少語言、善下人、喜怒不形於色。好交結豪侠、年少爭附之。

※ 三國志卷三十二 蜀志(蜀書)二/先主傳第二より

「劉徳然」は劉備と共に盧植に学び、劉備と同宗(同族)でもある人物です。徳然はおそらく字(あざな)で、名(諱・いみな)は不明です。

どのくらい近しい同族であったかも不明ですが、「劉徳然」の父親「劉元起」が劉備に学費を援助する程ですから、きっとそう遠くない血縁関係にあるのかもしれません。

と、いうことで名に親戚の「戚・セキ」をあてて「劉戚・リュウセキ」と登録しました。劉戚、あざなは徳然という設定です。

能力設定

統率75、武力75、知力82、政治80。特に高くも低くも無いバランス形の能力値に設定。このあたりの値は同じくバランス型の「劉備」に倣いました。

特技は商業7、交渉7、弁舌7、人徳5、巡察5。外交もいける文官のイメージ。

伝授特技は弁舌。戦法は火計。重臣特性は和気生財。

義兄弟に劉備、相性の欄には兄弟子の公孫?を設定。

立ち位置は自ら出資したり各地の豪商の協力を取り付けたりするスポンサー「糜竺」的なイメージ。または弁舌を駆使して外交面で補佐する「簡雍」「孫乾」「伊籍」的な人物を妄想してみたいと思います。

ゲームオプション – 勢力拡大は普通。傷兵回復は遅い。武将成長はあり。成長速度は普通。功績は少ないに設定。難易度は上級。史実ベースでスタート。

劉備配下・シナリオ「反董卓連合」

平原の相「劉備」に仕官

ゲーム内では190年。史実で190年代前半。この頃の劉備は袁紹と対立している公孫?の派閥に属して青州平原国(曹操が後に冀州に編入)に仮令(長官代理)として配属されていました。後に戦功があって平原国の相(代理長官)に昇進して実質的に平原を支配します。

為賊所破、往奔中郎將公孫?、?表為別部司馬、使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。數有戰功、試守平原令、後領平原相。郡民劉平素輕先主、恥為之下、使客刺之。客不忍刺、語之而去。其得人心如此。

※ 三國志卷三十二 蜀志(蜀書)二/先主傳第二より

公孫?派として青州刺史の「田楷」と連携しながら「袁紹」を牽制。その一方、劉備は平原で徳政を敷き、刺客にすら愛されるほど人心を掴んでいたようです。

そんな劉備に若い頃(親の劉元起が)「学費援助の恩」を売っている「劉徳然」は、いきなり五品官待遇で劉備陣営に属することになりました。

義兄弟の劉備の義兄弟、関羽・張飛とも絆レベルは最大の状態で「師事」を受けながら能力成長も進みました。

そのようにして内政の任につきながらゲームを進め、「反董卓連合」のイベントが起き董卓は洛陽を捨て長安に遷都。

小説「三国志演義」のエピソード、玉璽(伝国璽)を孫堅が見つけるイベントも発生。その後、史実通り長沙に帰った孫堅は劉表との戦で黄祖配下の呂公の矢により傷を受け戦没。後を継いだ孫策は袁術のもとに身を寄せます。

「劉備」徐州を譲られる

190年代前半。史実では「袁紹」が「公孫?」領に攻め入ると、「劉備」は田楷と青州の斉に駐屯。「曹操」が徐州に攻めると「陶謙」は田楷に援軍を求めて田楷と劉備は救援に。

「陶謙」の待遇が良いこともあって、田楷の指揮下を離れてそのまま「陶謙」のもとに移りました。

兵をもらい豫州刺史として推薦されて小沛(沛)の地に駐屯。

時が経ち「陶謙」が危篤になると、麋竺・陳登・北海の相の孔融の推薦によって「徐州」を領有しました。

この一連の流れがゲームでもイベントとして発生して劉備は3城(下?・小沛・琅邪)を得ました。

袁紹攻公孫?、先主與田楷東屯齊。曹公征徐州、徐州牧陶謙遣使告急於田楷、楷與先主倶救之。時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。既到、謙以丹楊兵四千益先主、先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史、屯小沛。謙病篤、謂別駕麋竺曰「非劉備不能安此州也。」謙死、竺率州人迎先主、先主未敢當。下?陳登謂先主曰「今漢室陵遲、海内傾覆、立功立事、在於今日。彼州殷富、戸口百萬、欲屈使君撫臨州事。」先主曰「袁公路近在壽春、此君四世五公、海内所歸、君可以州與之。」登曰「公路驕豪、非治亂之主。今欲為使君合歩騎十萬、上可以匡主濟民、成五霸之業、下可以割地守境、書功於竹帛。若使君不見聽許、登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰「袁公路豈憂國忘家者邪?冢中枯骨、何足介意。今日之事、百姓與能、天與不取、悔不可追。」先主遂領徐州。

※ 三國志卷三十二 蜀志(蜀書)二/先主傳第二より

「刺史」の官職を賜った劉備は「劉徳然」を牙門将軍に任じました。指揮兵力に+4000増える武官寄りの職です。

徐州イベントに続いて董卓を討った呂布が劉備のもとに流れてくるイベントが発生。小沛は呂布領(独立勢力)に。

「公孫?」は劉虞に破れ、更にその劉虞が「袁紹」に敗れて、ちゃっかり「袁紹」配下におさまっていました。

「袁術」を攻めて「孔融」に襲われる

ここまで概ね史実と同じような道をたどって来た劉備陣営に大きな変化が起きました。

194年秋。劉備の命により「袁術」領の広陵へ進軍。

その後背を「孔融」に襲われてしまったのです。

徐州領有を薦めたあの「孔融」です。史実の通りここで「呂布」が動いたなら納得もいきますが、まさか「孔融」が攻めてくるとは驚きです。

琅邪に「孔融」が攻めてきたので、全軍指揮権が与えられていた「劉徳然」は広陵から撤退。関羽・張飛・陳登らと琅邪にて防戦し「孔融」軍を退けました。

この混乱を好機と捉えた「曹操」は済北から琅邪へ侵攻。先陣の曹休を退けたものの、援軍と曹操の本隊も到着して兵数は劉備軍25000に対して曹操軍70000。

劉備・関羽・張飛・陳登と将の質では曹操軍にひけを取らないので、そのまま戦闘を継続して粘ります。

最終的に劉備軍15000に対して曹操軍は10万に膨れ上がり遂に撤退を決意。琅邪を放棄して下?に退きました。

防衛の準備を整える間も与えられず、その流れで下?も落ちて劉備軍は壊滅となりました。

劉備・陳登・劉徳然らは曹操に降り、徐州勢の多くも曹操配下に。

曹操配下・曹操包囲網

河内太守「劉徳然」

曹操に迎えられた「劉徳然」はいままでの功績によって五品官待遇で仕える事になりました。折角なので曹操とは絆レベル1「朋友」にまで仲良くしておきます。

195年。許昌遷都イベントが発生して漢皇帝(献帝)は長安から「曹操」のいる許昌に迎え入れられました。帝を擁立した「曹操」は司空の位(三公・高い官職・法務治水土木を司る)に就きました。北海の「孔融」は曹操のもとに。

その後、呂布・張繍を下し、長安を攻略して曹操は領地を拡大していきました。

195年冬。長安攻略などで功をあげた「劉徳然」は河内太守に任じられました。河内は黄河を挟んだ洛陽の北に位置し、北と東で「袁紹」領に面している前線かつ重要な土地です。

河内太守となった「劉徳然」は、都で曹操の監視にビクビクしている義兄弟「劉備」を河内に呼び寄せる事に成功。

絆レベル1朋友の「簡雍」も河内に呼び寄せられましたが、関羽・張飛は許されず。

武の者が足りないので「胡車児」を登用。智者の「荀彧」の登用にも成功。人材が揃いました。

曹操包囲網(対袁紹・孫策・劉琦・馬騰)

196年。劉表を盟主とした反曹操連合が誕生。曹操が劉表を野戦で下し捕縛して処断。劉琦が後を継ぎます。

197年夏。寿春の地をめぐって「曹操」と「孫策」が激突。曹仁を主将に「劉徳然」率いる河内軍(劉備・簡雍・荀彧・胡車児など)も増援に駆けつけますが、兵数は曹仁軍60000に対して孫策軍60000で戦況は五分で推移。次第に孫策軍に程普・韓当・周瑜・孫権・袁術などが続々と寿春に集結して「孫策」軍が優勢になり曹仁軍は撤退。寿春は陥落ならず。

197年冬。袁紹軍10万は済北、馬騰軍50000は弘農、劉琦軍70000は許昌、孫策軍70000は?に逆進撃を仕掛け、そのうち孫策軍の進攻が激しく防ぎきれずに?は陥落。さらに下?も奪われました。この戦いで関羽・張飛は孫策軍へ。

更に許昌が陥落して漢皇帝は「劉琦」のもとに。

これで一気に防衛線は崩れ済北・弘農も陥落。

特権を使い「孫策」と同盟交渉

外交や戦争が自由に行える特権チケットを一枚賜ったので、進攻激しい「孫策」との停戦・同盟交渉に使うことにしました。

198年。「劉徳然」が「孫策」の居る呉へ交渉に出向いている間に袁紹軍80000が河内へ進攻。外交を優先して防衛は劉備に任せ、帰還せず交渉を続けます。劉備ら河内軍40000の防戦むなしく援軍も無く河内は陥落。

孫策との交渉は、孫策配下で顔見知りの「陳登」か「司馬朗」の口添えがあればなんとかまとまりそうな感触でありました。しかし時間が足らず。

北海太守「劉徳然」

失地した「劉徳然」は、新たに曹操領の北海太守にまわされました。北海は飛び地となっているので援軍は望めません。「孫策」との交渉は長引きそうであり、さらに曹操軍壊滅は免れそうにない様子です。

北海太守の任に就き「劉備・胡車児」の呼び寄せに成功。簡雍は許されませんでしたが、ここで決断を下します。

独立時代

「劉徳然」斉を治めて絆を深める

198年夏。「劉徳然」北海の地で曹操から独立。

仲の良い劉備・胡車児が賛同してくれたのは予想通りとして、曹休・曹洪といった曹操の血族も独立に付き合ってくれたのは予想外でした。両者とも統率や武力が高めの良将なのでとてもありがたいです。

さらに人材を求めて在野の士「程昱」の登用に成功。

198年冬。「劉徳然」弁舌を駆使して袁紹と同盟。孫策と停戦。

198年12月。曹操軍壊滅。曹操勢は曹操を含めて多数「孫策」軍に吸収されました。

200年。孫策没し孫権が継ぐ。

204年まで、約6年の間「劉徳然」は州刺史として北海の地を治め、平穏の時を得ることができました。平和な北海の噂を聞きつけ、戦火を逃れて在野の士が流れてくることもあり、その者たちと親交することもできました。

交友を深めながら能力成長もすすめて、能力値は統率80、武力76、知力85、政治81に。

袁紹配下・天下二分

袁紹配下・いきなり三品官

「袁紹」との同盟延長の為の交渉を何度か行い、袁紹の参謀「田豊」と幾度も舌戦を繰り広げました。「田豊」の弁舌は「劉徳然」より下(弁舌5)ながら、知力の差で交渉を何度か阻止されました。小国であるため戦で名をあげることはできませんが、こうした舌戦で「劉徳然」の名がひろまり、小国の君主でありながら存在感は低くありませんでした。

ただ「袁紹」と「劉徳然」の個人的な仲は悪くなく、例え攻められても命を獲られるまで至らないだろうと、交渉の失敗については恐れず楽観視しておりました。寧ろ君主の地位に縛られず、早々に降った方が道が開けるのかもしれません。

204年冬。同盟の期限切れに合わせて袁紹軍13万が北海に進攻。顔良・文醜・張?・公孫?・趙雲らが攻め寄せ北海は陥落。「劉徳然」と「劉備」らは袁紹配下に。これまでの功績で三品官待遇での登用となりました。

先主走青州。青州刺史袁譚、先主故茂才也、將歩騎迎先主。先主隨譚到平原、譚馳使白紹。紹遣將道路奉迎、身去?二百里、與先主相見。

※ 三國志卷三十二 蜀志(蜀書)二/先主傳第二より

劉備の方も「袁紹」の子「袁譚」を茂才(推薦状・官僚への任用きっぷ)に推薦していたエピソードがあって「袁紹」とのパイプ作りは既にバッチリでした。

「袁紹」漢皇帝を迎える

205年初頭。覇を競って激戦を繰り広げていた「袁紹」と「孫権」は停戦し一時休戦。「袁紹」は馬騰と劉琦を攻め。「孫権」は劉琦と交州の士氏を攻め領土を拡大していきました。

同年。袁紹軍は許昌を攻略して漢皇帝(献帝)を迎えることに成功。

巨星堕つ「袁紹」から「袁尚」へ

205年春。念願の皇帝擁立を成し遂げた「袁紹」でしたが、まもなく寿命で没し「袁尚」が後を継ぎました。異母兄「袁譚」を差し置いての世継ぎでありました。

覇権を争う重要な局面ということもあり、表立っての内乱はおこらないものの、郭図・辛評ら「袁譚」派の配下たちの心中は想像に易しいです。

関中攻略・「袁尚」隴を得て蜀を望む

205年。「袁尚」は大軍を発し、馬騰軍が守る函谷関を抜き長安を攻略。続いて潼関での激戦を制し関中を制圧。

205年冬。「袁尚」は漢中を攻め張魯軍を撃破。「孫権」は劉琦を滅ぼし江陵・江夏以南の地を制圧。

206年夏。「袁尚」馬騰を撃破し涼州全土を制圧。孫権との停戦期間が残っているうちに南へ向かう構えです。

「袁尚」隴を得て蜀を望む。

武都太守「劉徳然」・「政争」袁譚派への嫌がらせ人事

関中・西涼攻略で弘農太守「軻比能」に従軍して功績をあげた「劉徳然」は武都太守に。許昌で「袁尚」に監視されビクビクしている義兄弟「劉備」の呼び寄せを許されました。

劉備のほかに在野の知者「荀彧」と武の者「馬休」を登用して人材をそろえました。

206年冬。袁尚軍主力の顔良・文醜・張?らが大軍を率い葭萌関を攻め「劉璋」配下の劉楯・呉懿・張任・厳顔・黄権らと激戦。守り堅く長期戦に。

「劉徳然」にも葭萌関攻めを命じられますが、出陣のタイミングのたびに他所への太守任命を連発され困惑(集めた兵士や人材は異動しないので面倒沙汰)。何度も拒否して「袁尚」の親密度がどんどん下降。「袁譚」派への嫌がらせ人事のようです。

207年秋。葭萌関攻略。

207年冬。「袁尚」漢皇帝より「王」に封じられる。

207年冬。「孫権」交州を制圧。

208年春。綿竹関攻略。

208年夏。成都攻略。「劉璋」は西南に逃れて抵抗を継続。

210年春。「劉璋」軍壊滅。武都太守「劉徳然」は雅丹を登用。

名門袁家、帝位にのぼる

「四路攻撃」江陵・江夏・寿春・下?

210年夏。停戦期間の満了と同時に「孫権」は30万の大軍で襄陽へ進攻。

武都太守「劉徳然」にも勢力攻略を命じられて出陣しました。国力としては「袁尚」の方が兵士動員数が多く、将の質は曹操軍や荊州系の人材を吸収した「孫権」に分があります。

210年秋。「袁尚」孫権軍を押し返して江陵へ逆撃。さらに江夏を攻めて江東方面からの援軍の進軍を牽制する構え。

211年春。「袁尚」北から下?を攻めて広陵に進み、長江を挟んで対峙し建業に圧力を与え続ける。武都太守「劉徳然」は法正軍らと寿春へ進攻。20000ほどの兵力で孫権配下の徐晃軍10000を緒戦で破り、のち援軍と共に城を攻めて寿春攻略。

211年夏。「袁尚」軍本隊は江陵を落とし、武陵・零陵へ進む。曹操が守る長沙を後に回し、桂陽を制圧して退路と補給路を断つ。分隊は引き続き長沙を囲んで「袁尚」本隊は交州から南周りで江東へ進むというシブい攻め口で侵攻。「孫権」周瑜を派遣しこれを数度押し返す。

211年秋。孫権配下の曹操は長沙を退き黄蓋・甘寧・張飛らを主力とした江夏防衛軍へ合流。公孫?・西涼勢が攻め続けるも江夏は未だ落ちず。武都太守「劉徳然」は儒須口で遊戦して江夏に向かう援軍をちょっぴり撹乱気分。

211年冬。江夏・交州を制圧。「袁尚」の建業進攻は度々「孫権」水軍に阻まれる。

212年秋。建業・呉・会稽陥落。孫権軍壊滅。

「袁尚」帝位を簒奪す

212年。「袁尚」が天下を統一。

都「?」にて献帝から禅譲を受け、18回辞退したのちに「袁尚」はようやく帝位につき国号を「晋」としました。のち洛陽に煌びやかな大殿をたて遷都しました。

ED・「劉徳然」劉備と諸国を漫遊す

晋が天下を統一したのち「劉徳然」は高齢(齢51)を理由に官職を退き、政争・粛清を避け隠居しました。

同い年(51歳)の義兄弟「劉備」はまだ漢朝復興を諦めていないようで、諸国を漫遊しながら人脈を築く・復興の種を撒いて歩くのだと息巻いております。北方の匈奴あたりの土地に興味があるらしく、今度「劉徳然」を誘って旅に出る予定だとか。

中央の政に目を向けると、晋皇帝「袁尚」は15人の皇族に王位を与え各地を治めさせましたが、さてどんな世が待っているのでしょうか。

(おわり)

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